三島由紀夫は「愛国教育や国粋主義」を嫌い、「徴兵制と核武装」を否定した
日本人は豚になる~三島由紀夫の予言⑧
11月25日の三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地内で自決した日が近づいてきた。今年はちょうど50年にあたる。それにともない三島の行為を美化、あるいは罵倒する評論なども出揃ってきたようだが、あの一件の評価だけでは三島という複雑な人間はわからない。三島は民族主義や国家主義を警戒し、反共や復古主義の欺瞞を指摘し、愛国教育や国粋主義を嫌い、軍国主義を批判し、徴兵制と核武装を否定した。作家適菜収氏が新刊『日本人は豚になる 三島由紀夫の予言』でそのすべてを明らかにする。
■「弱い人間」だった三島由紀夫
『日本人は豚になる 三島由紀夫の予言』で書いた私の話をまとめればこうなる。
①三島は本質的な意味における保守主義者だった。
②だから、三島は右翼になりきることができなかった。
③晩年は右翼を演じている自分を客観的に見つめる保守主義者としての三島がいた。
④つまり、三島という人間の中では保守主義者と右翼が同居していた。
⑤これは概念上、成立しない。
⑥よって三島は分裂した。
それで三島は悩んだ。三島はまじめだった。あらゆる方法を使って、自分の中に生じている「矛盾」、あるいは保守から右翼への「跳躍」を説明しようとした。
しかし、説明を必要とする時点ですでに右翼ではない。
三島は最後まで保守主義者の視点で、自分を眺めていた。
三島のイラつきはよくわかる。
近代は一方通行の構造を持つ。
だから、近代を疑う保守は戦う前から負けているのである。
負けが宿命づけられている。
基本的に何を言ってもムダなのである。
それでも何か言わなければならないという気持ちにもなってくるが、その一方で、ムダなことをやり続けることにも疑問を感じてくる。そこには、後ろめたい気持ちもある。保守主義者は一般にこうした葛藤を経験する。
三島は小説家の武田泰淳にこう漏らしている。
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僕はいつも思うのは、自分がほんとに恥ずかしいことだと思うのは、自分は戦後の社会を否定してきた、否定してきて本を書いて、お金もらって暮してきたということは、もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。(「文学は空虚か」)
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しかし、これは個人で責任を取れるような問題ではない。
少し厳しい言葉を使うが、こうしたある種の思い上がりが、三島が右翼を演じるようになった理由ではないか。
三島は真っ当な保守主義者だったので、復古主義や民族主義の脆弱性も理解していた。
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中近東や東南アジアの民族主義に対するわれわれの同意は、伝来の「弱きを助け強気を挫(くじ)く」助六精神であるけれど、弱い筈の民族主義者が、モスクワから帰つてくると、「原爆さえもおそれてゐない」と啖呵を切り出し、一方、「強気を挫く」だけの助六の腕力がわれわれに欠けてゐる以上、民族主義に対するわれわれの立場は、不透明にならざるをえない。第一、日本にはすでに民族「主義」といふものはありえない。われわれがもはや中近東や東南アジアのやうな、緊急の民族主義的要請を抱へ込んでゐないといふ現実は、幸か不幸か、ともかくわれわれの現実なのである。(「裸体と衣装」)
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